原子爆弾とは〜注37

公開: 2019年8月22日

更新: 2019年8月26日

注37. 清国

17世紀に中国東北部の女真族の指導者ヌルハチが建国した後金国が清の前身です。その後、ヌルハチは、満州文字を制定し、女真族の勢力を発展させました。1636年にモンゴル族、女真族、漢族の代表が瀋陽に集まり、女真族の名前を満州族に改め、ヌルハチの子、ホンタイジが皇帝として即位することが決まりました。

1644年、清は主都を北京に決め、中国の支配を始めました。それでも、明時代の残党勢力が中国南部を支配し続け、抵抗を続けました。その後、清は中国南部を平定し、国の制度を整備しました。清は、少数派である満州族の支配であるにもかかわらず、大多数である漢民族を支配することに成功しました。これは、漢族の文化や科挙の制度などを許容したからのようです。

康熙(こうき)帝、雍正(ようせい)帝、乾隆(かんりゅう)帝の時代に、清は最盛期を迎え、台湾を併合、ロシアとの国境を確定、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下に入れました。そして、新疆(しんきょう)までを中国の領土としました。

19世紀になると清の支配が衰え始め、経済の停滞、人口の爆発的増加、自然災害などで、社会が不安定になりました。この背景には、巨大な多民族国家を治めるための新しい政治システムの導入が必要だったことがあると言えます。その問題に大きく影響したのが、ヨーロッパ諸国との関係でした。

中国へは、イギリスとアメリカが積極的な貿易振興策をとっていました。イギリスは、清から茶、陶磁器、絹を大量に輸入していました。しかし、中国へ輸出する物品がなく、大きな貿易赤字を抱えていました。さらに、イギリスは、アメリカの独立戦争や産業革命のための資本蓄積を必要としていたため、インドで栽培したアヘンを中国へ輸出するようにしました。

このイギリスのアヘン輸出に対抗して、清は1796年アヘンの輸入を禁止しました。それでも、インドからのアヘンの密輸入は拡大し続け、中国における社会問題になっていました。特に、人口の爆発的な増加で、貧しい下層民が大量に増加したことも、アヘン問題を大きくしていたようです。西欧において発展していた帝国資本主義は、裕福な清時代の中国から多くの利権を勝ち取ることを狙っていました。

清は、広州においてイギリス商人からアヘンを強制的に没収して処分する政策を摂りました。これに対して、アヘン貿易で利益を得ていたイギリスの政府は、イギリス人の財産と国益を守るため、アヘン密輸の維持と沿岸地域でのイギリス国民の治外法権獲得を目的に、1840年にアヘン戦争を始めました。その結果、清は1842年イギリスとの間で不平等な南京条約を締結することになりました。

その後も、イギリスは、第2次アヘン戦争などを起こし、天津条約を結び、中国の11の港を開港させることに成功しました。イギリス以外でも、ロシアは、アムール川左岸や新疆西部などの領土を獲得し、権益を拡大しました。そのため、清の領土は少しずつ狭まってゆきました。西欧諸国の帝国資本主義が弱った清を蝕んだ様子を聞いた日本の指導者たちは、危機感を持ち始め、明治維新の徳川幕府転覆へとつながりました。

参考になる読み物

Y. N. Harari, "Sapiens - a brief history of humankind"(2011), Kinnert, Zmora-Bitan, Dvir